映山湖の歴史

 

ペンション映山湖、開拓当初からのランプ

那須に来たのは、昭和24年(1949年)。
実家は東京だったんだが、戦前は満州へも行ってたくらいだから、こういうところが結局好きなんだわなー。戦争が終わって引き上げて来てからも、今度は北海道に行きたくてね。でも親戚、家族から「そんな遠くへ行かなくたって……。」と反対されてね。で、近ければ良いんじゃないかと、那須に来たわけ。
何にも持ってこなかったね。カバンに、着替えとタバコ銭。だけ。
最初は御用邸の馬小屋で寝泊りしたんだわ。1〜2か月だったね。それから養魚場の納屋にも同じくらい居て、それから5〜6人のグループに分けられて「半俵」の放牧場で篠の屋根に木で柱は立てたものの、篠で囲って藤蔓で縛った小屋を作って、寝泊りして、昼間はひたすら開墾だ。3ヶ月くらいそうしてたかな。食料?食料はアメリカからの援助物資。トウモロコシの粉とかだったね。
次に、2〜3人くらいで自分達の住み良いところへ分散したの。
そうして、いよいよ1人になって、1人あたり5町歩ぐらいかな?土地配分されて。
そん時も、ここの土地は湿地帯だったから、誰もが嫌ってね。ま、自分は清水だし、適してるかもしれないって思って、ここに決めたんだわ。
やっぱり篠小屋作って。でも慣れてるわけじゃないから雨漏りもしたよ。本が好きで、借りてきてランプの灯で読んでると、熊が、隙間から顔出したりしてね。でも、すぐには自分の土地になんないんだわ。ちゃんと開墾して作物が出来る土地にして、政府にお金も、ちゃんと払わなきゃなんないし、これが払えなっくてね。肥料代とかも政府に借金したの。でも、それ以前に作物の出来る土地にするまでが大変でね。だから、一番最初に来た人達はほとんど逃げていっちゃったよ。今残ってるのは、うちと南ヶ丘牧場と、もう一人ぐらいだ。
裸で開墾してたら、ある時意識不明になっちゃって、まず広谷地の診療所に、近所の人達が戸板で運んでくれて、あとは黒磯の病院に入院する事になっちまって、昔だから付き添いが必要で、それで東京にいた母を呼んだんだ。父は戦争中に亡くなっていたしね。結局、それから母は那須に、居着いてしまった。
オーナーの母

それから、ようやっと作物ができるようになって……。でも、やせた土地だから、じゃがいもや、ひえ、あわ、蕎麦みたいなもんしか出来ないの。それだって、農業やった事も無いから、横沢辺りの(あの辺りは少し標高も下だったりするから、前から米つくってる部落が有ったんだわ。)人達に聞いたりしてね。それでもお金になんないから、その頃やってた那須山の砂防工事に雇ってもらったりして、馬車買ってね、炭や薪を那須から黒磯まで運ぶ仕事したり……。

昭和27年には、おかあちゃん(妻)が嫁さんに来てくれたから、そういう事も出来たんだわ。でも、隣の家まで行くのに、午前中なんか、朝露に濡れた草払いながら行かなくちゃならなかったり、川で米研いだり、とにかく、何にもなかったからなー。

そういえば、その頃畑のすぐ下に、よその馬の放牧場が有って、その馬たちが、せっかくの作物を荒らしてね。全滅しちゃった年も有ったな。

だんだん大根は東京の築地に。じゃがいもは黒磯の農協に売れるようになって。でも、やっぱ、作物には向かない土地だったから、この辺の人達、皆そうだけど、酪農に変わっていったんだ。

 母です。  
馬、和牛、乳牛。毛を取るのに羊やアンゴラうさぎも飼ったな。
10年ばかしやったかな。この仕事も慣れなくて牛に、けられたり。採算が合わなかったりしてた時に、那須に土地ブームが始まって。不動産屋が「土地売ってくれ」って言うんで、皆苦しいもの。土地切り売りしたの。結構良い値で売れるもんだから、皆、家作ってね。とうちゃん(私)は、家作んないで池作ったの。
そして、その頃は見通しがよくって(黒磯までよーく見えたんだから)山も綺麗に水に映ってたから、
「映山湖」と、名前、つけたの。みんなに変人扱いされてね。
でも、水が出てどうしようもないんだもの。養魚ならどうにかなるかと思ってね。冒険だったな。
昭和41年から始めたんだも、当時は今みたいな機械が無くてね。
土を押すだーけ。で、機械では大まかな事だけやって、おしまい。

映山湖をおおまかに掘っただけの時の様子

あとは、近場の、若い人頼んで手作業。石垣積んで、まあ、それでも、大体ね。あとは自分でだ。
鯉入れて養殖始まったけど、これまた、採算が合わなくてな。餌代がばかにならないの。あん時は、近所の人も「清水さんは何やってんだか……」って、本当に思ってただろね。
でも、とうちゃん(私)は、すぐ切り換えて釣りをさせたの。これも3〜4年しかやんなかったけど、お客さん結構来たよ。そん時だ。交通公社(現JTB)でも宣伝してくれて。でも個人としちゃ、ちょっとばかし大きい池なんで、地図にも書かれてしまって、今だに公の湖だと、思われたりして。困ってはいるの。とうちゃん(私)は、「ここは私のものです。」なんて、わざわざ言わないし。最近だよ。どうにか息子たちが頑張ってくれて。でも、かなり苦労させちゃってるね。「わかってくれない」と、しょっちゅう言ってる。
釣りは、今でも、ブームだかなんだか知らないけど、うちで釣りやったらどーだ。とか。釣りしたい。なんていう人もいるが、もうこりごりだね。いやー。行儀が悪すぎる。いい人もいるんだが少ないね。
冬は、水、少なくして、スケートもやったよ。昔は、カチンコチンに凍ったし。でも、平らにするのに、夜、水まかなきゃならないんだ。それで、体壊して、これも3年くらいでやめちゃった。
釣りさせてた時に、おかあちゃん(妻)が、うどんをぶって、お客さんに食堂開いてたの。旨かったし、まだ、那須街道にも店がポツポツだったから、そっちのほうが流行って助かったの。
そのうち、今度は「泊まりたい。」って言う人がだんだん出てきて……。
こんなとこで、お客さんを泊め始めたの。 映山湖、昭和40年代の家
    
昭和41年には、母が亡くなりました。

    翌、昭和42年には、ボートも乗せるようになって。

そしたら、間もなく、うちに昭和天皇が御用邸から水源のほうの湿地帯を見にきたの。
サギ草とか、アヤメみたいのが好きだったんだわね。誰かに聞いて、ワザワザ来たんだな。
この、手前の奥の方がそうなの。

映山湖ガーデンの奥のほうの雑木林

で、昭和54年には、本格的に許可とって、民宿を始めたの。本当は「旅館」も出来る許可なんだけど、固いこと嫌でね。民宿だと、こっちも気楽でしょ。
息子も、跡継いでくれて、嫁さんももらって、孫も出来て。泊まるお客さん以外は、入れないように、しちゃったし(現在はオープンガーデンとして宿泊のお客様がいらしゃらない日は入園出来ます)。平成9年には、お客さんの部屋、ログハウスにして、まあ、今だな。
「オーナー」なんていってるが、もう、実際は隠居させてもらってるの。毎日庭仕事して、孫の顔見てるのが、これ、いいんだろね。

                                                      by初代オーナー、故 清水輝威 (2016年没 享年91歳)
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